2012年1月18日水曜日

Education 2012.1.15 〈DAY9〉


・0800 起床寝坊 シャワー サンデーモーニングのスポーツ見つつ朝食(フレンチトォスト・ヨォグル党・りんご)珈琲(昭平堂グアテマラ)

・部屋の清掃 本日はセンター試験のため大学でお仕事できず、怠業の予感…

・案の定、怠業。家事に勤しむ。

・1230 昼食 前夜のカジカ鍋でおじや。鍋は本当に、最後の一滴まで食べれるので経済的。

・1330 中心部の某所で、お仕事…ぢりぢり。

・しかし、途中で読書。「呪いの時代」を一気に読破。

・最初から最後まで、内田さんの適度なレベルとわかりやすい論理で楽しめた。なんだかすっきりするくらい。今思うと「国際政治」から「日本政治」、「英語不要論」、「結活」、「草食系男子」、「経済論」、「太宰治」そして「東日本大震災」まで、さいごは「科学論」と、とても幅広い分野をカバーする、知識と明確な意見に圧倒された。全体的に「壊す」時代といういしきから「作る」時代という意識が根底に流れており、批判に終始する事無く、自らの意見を今以上にハイブリットさせるためには、他者との意見の対話(「自説の反対者と生産的な対話をなす」)能力をみにつけ、また、意見を発信する相手に対して敬意を持って表現する(太宰文学に特徴的な「読者の知性に対する敬意」)など、とても納得させられた。また、科学論に関しては、先日の「科学の社会的意義」と関連して、「科学的方法の社会的・公共的性格とは、場に対する信任」とあり、やはり研究においては「場」というものを意識しなければ成らないという事(ひとりよがりはだめよ)を改めて認識した。三中信宏さんも言っていた事だが、外に対する義務的な研究の理由付けは必要である。何度も述べているが、ぼくは、研究者はこの「外」に対する発信能力を身につける必要があり、それが「研究」という俗世離れした職業の大きな意義だと考えている。それも、ある意味では「教育」(人に伝えるという大義の意で)であり、その能力に長けている研究者は事実、自らの研究テーマに対して、社会というモノサシで相対的に価値を知る事ができる。大学や研究所にこもって論文ばかり書くことは、絶対的な価値であり、その価値を価値として見なしてくれるのは非常に少数である。

『「研究」と「教育」は、正反対の分野である。』という風潮に、ぼくは異を唱えたい。

事実、今回の原発事故で、思い知ったと思う。科学者という存在の危うさを。

・1900 某所より帰宅 夕食の準備 夕食(手羽元のチキンカリー)

・論文読んだり、気を失ったり

・2300 明日に備え、早めに就寝

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